言葉は感覚を磨く
「欲しかったのはこれじゃなーい!」
と子供に言わせるがためのこのロボ
絶妙なガッカリ感を生むこの「コレジャナイロボ」は2008年度グッドデザイン賞を受賞してたりするんだけど、わたしも同僚がやいやい騒いでるのを見て知りました。
手がけたのは今注目の会社(なのかな?)のザリガニワークスさん。
- 作者: ザリガニワークス
- 出版社/メーカー: パルコ
- 発売日: 2013/01/22
- メディア: 単行本
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著書の中で、デザイン担当の坂本氏の語る「言葉の使い方」がとても印象的だった。
<「論理」と「感覚」は、相容れないものではない 166ページ>
一般的に、「論理(言葉)」と「感覚」を対象のものかのように扱う風潮があるように思います。
(中略)
感覚とは「言葉で言い表せないもの」として考えられている節があるように思います。しかし本当にそうでしょうか。
感じるというのは、確かに事よりも先に立ちます。しかし、例えばここで、きっと言葉を苦手にする人でも「モヤッとする」とか「何か気持ちいい」と、心で認識します。本人はこれをまだ感覚としているかもしれませんが、「モヤッとする」も「何か気持ちいい」も、これは完全に言葉です。もう感覚ではないのです。熱いものを触って、「熱い!」と思う。これももう言葉。
どれも「非常な低解像度で感覚を言葉で認識している」ということなのです。そして、それらの原因や手触りの詳細についてちょっと深く感じれば、ちょっと解像度が上がる。
つまり、言葉をどこまでも使えるようになれば、どこまでも認識の解像度は上げられる。それは、より多くの情報を、細やかに、間違いなく拾うことができることができるようになるということ。
だからむしろ、「言葉は感覚を磨く」。これが僕の持論です。
飾りたてて凝ってるわりに「なんか雑だな~ピンとこないな~」と思わせる文章を読んだ時の感じが、「低解像度で言葉にしてる」って著者の表現でクリアになった。
身体性をベースとしたもの(ヨガ)でも、感受性をベースとしたもの(音楽、芸術全般)でも、味わっているその「感覚」を研ぎ澄まし「認識」を深堀りする(=解像度を上げる)ためのツールが言葉である、と。
「からだ、固い」ではじめたヨガも、やがて身体の細部に意識が向くようになり、そこに起こる感覚や認識の解像度が上がっていく。微細な刺激に気付けるようになる。
からだってどこ?
固いってどういうこと?
いまどうなってる?
効いてるってどんな感じ?
味わってるこの感覚はなんと呼ぶ?
「言葉は役立たずだ」とか「言葉では表せない」とか言うけれど、少なくとも誰かに何かを働きかけたい方には、「言葉で感覚を磨く」って必要な努力なんじゃないかと、ヨガを伝える立場のわたしとしてはかなり腹落ちした話でした。
この後も「ううむ・・・たしかに」とうならせる内容が続くんだけど、新刊だし、話題だし、紹介はこのあたりにしてぜひ手にとっていただければ、と。
ちなみにこの本のメインテーマは別のところにあって、「自分はナニがしたいのかなぁ・・・」と漠然と考えてる方にはちょっとしたヒントが得られるんじゃなかろうか。
口語調の文体はとてもシンプルでスラスラ読めるんだけど、「伝えるための言葉選び、文章運び」に注意を払い、細部まで神経を行き渡らせてることがビシビシ伝わってきます。なかなかこんな風には書けないよね。