心耳(しんじ)を澄ませて無声の声を聴く

 

内田樹(うちだたつる)氏は武道家にして思想家。

身体性をベースとした彼の視点が好きでよく読んでる。 

 

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

 

タイトル通り、「なんか読んでるうちに眠くなるけどそこそこの本を」ってよくわからない思いでストック購入し、ちまちま読み進めた一冊。

 

で、別に催眠効果はない。

どちらかというと「ううむ」と目が覚めたりするので要注意。

 

<身体の感覚を蘇らせる~個性ということ 103ページ>

自分が「個性」だと思っていたものの多くが、ある共同体の中で体質的に形成されてしまった一つの「フレームワーク」に過ぎない、と気が付くわけです。
自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められているのか、そこからどうやって脱出できるのか、というふうに問いを立てるとろこから、はじめて反省的な思考の運動は始まります。
「私はどんなふうに感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを問うのが要するに「思考すること」ということです。自分のかけがえのない個性だと思ってるものの95パーセントくらいは、実は「既製品」なのです。

 

団塊世代、全共闘世代、バブル世代にゆとり世代・・・知らないうちに生まれ育った社会や所属する共同体の価値観を「わが個性!」と思いこんでるフシがあるのでは?という著者の問いかけ。

 

どんな世代、組織、団体に所属してようが常にオリジナルの個性を発揮し続けられる人ってすげえな!と尊敬するいっぽうで、ちょっと大変だろうな・・・危ういんじゃないのかな?と、最近のソーシャルメディアを傍観してアレコレ思ってた矢先だったんで、このタイムリーな問いかけが刺さったわけ。

 

自我

個性

自分スタイル

 

そんなようなものに、いま見事に混乱中。

 例えば私には、

 

会社関係で発揮する個性があり、

幼少を過ごした地元や家族関係で発揮する個性があり、

ヨガのコミュニティで発揮する個性がある。

 

遊びと仕事で使い分ける顔があるってフシギでもなんでもない。

けれど、それらがいっぺんにごった煮になった、強制的なデジタル上の人間関係の中(要するにFACEBOOK)でふと我に返ってワケがわからなくなる。

 

このブログは「ヨガのことを中心に書きますよ」と宣言してるマイメディア(自己満足)なのでのびのびやれるけど、ツナガリまくるソーシャルメディア上で熱く仕事のこととか、日々の思いとか、ましてヨガ馬鹿っぷりをがっつり公開するのは私はなんだかはばかられる。

 

ここ行った

なに食べた

あれ読んだ

いい景色みた

 

結果、あたりさわりのないスタンスをとりつつもなんか息苦しさに気付いてしまい、「こんなことわざわざここで言うことか?」と「みんなに言いた~い!」の狭間でぐじぐじすることが多くなってきたわけ。

 

徹底的にひとつのコミュニティに閉じて使うメディアとしてなら有効なのかもしれない。けど申請をシカトし続けるとかキッパリ断るとか、なかなかタフなハートが要るよね。

 

もしくは所属する共同体が少ない人にはなんら問題のないことかもしれない。学校の友達とやってます!みたいなね。学生でもないのに「所属する共同体が少ない(限定してる、狭い)」ことの健全性についてはここではもう考えない。きりないわ。

 

で、仮に、

 

◆人は年を重ねるにつれて所属するコミュニティも多様化する

◆所属するコミュニティに応じて発揮する個性(顔)を使い分けることがソーシャルメディアでは難しくともリアルライフではまだ可能であり、またそれが人間関係や精神面のバランスを保ててグッドである

 

と無理やり仮定して、じゃあその使い分けてる個性って本当に『わが個性!』と言えるの?と。『ヨガをやってる者なら一般的に考えること、振る舞うこと』を、私は私のオリジナリティだと思ってたりするんでは?と著者の問いかけにまた戻っていく。

 

ヨガをやるものかくあるべし!的な(ベジタリアンであるべし!とか)妙なこだわりやいきすぎた自主規制の先にあるのはオリジナリティではなく既成の思考では?と。

 

眠れなくなる問いかけだなぁおい。寝かせろっつーの。

 

 

<身体の感覚を蘇らせる~自律する身体 133ページ>

自分の体の中が今どういうふうになっているのか、背中は後ろからどう見えているか、内臓を支える筋肉はどんなふうに緊張しているか、全身の細胞はどんなふうに動いているか・・・実際に感知できるできないは別として、そういうふうに身体の内側に意識を向けることはとても大切なことです。

中略

どうして、武道のような殺傷技術において「身体の内側をみつめる」というような観想的な稽古が重視されるかというと、それが身体感受性を高めるための最良の訓練だからです。

合気道の「安定打座」にせよ、あるいは座禅にせよ、ヨガにせよ、気を練るための練功法にせよ、その目的は、おそらくは意識を身体の内側に深く深く向けることにあります。骨格の動き、内臓の動き、筋繊維の動き、さらには細胞の動きにいたる身体内部で活発に動いてるものの水準に感覚の焦点を移すことで、自分の身体を構成している部数の「パーツ」に対する感覚を磨きあげるのです。
そういう感覚には、自分の身体を構成する無数の「パーツ」の自律性に対する「敬意」が必ず伴います。

自分の身体の一つ一つの部分に対して「敬意」を抱くこと、これが身体感受性の開発にとって、おそらくもっともたいせつな心構えだろうと思います。

 

ヨガではプラーナ(生命エネルギー、「気」と訳されることが多い)や呼吸も含めて細かく内へと見つめていくことで身体をキメ細かいセグメントにばらけさせる。

 

そうすることでセグメントの細かさやパーツに気付き、それぞれに気を配り、その自律性を高め、敬意を払う気持ちを育み、自分を大切にし、同様に周りの人を大切にし・・・とヨガ哲学的なツナガリ論に展開していくんだけどここでは割愛。

 

とにかくほんとありがとう、パーツたち。

助かるよ!

 

だって私の身体は勝手に、自律的に、「よくしとくね!」と活動をしてくれてて、私はちっとも意識的にコントロールなんてしてないし、できもしない。

 

いい感じの体温を保つとか、寝てるあいだに息するの忘れないようにね!とかホルモンだしとくね~!って自律神経系はもちろん、筋肉や骨格だって「ここがちょいこわばってるね」という部位は無意識に身体が勝手に調整してくれたりする。

 

なんてグッジョブ!

「グッジョブ!」と褒めるために内側を見つめようってことで。

 

 

<身体の感覚を蘇らせる~形が教えるもの 150ページ>

武道の形稽古の多くは、奇妙な身体運用を術者に要求します。この形は「どうして、こんな形を遣わなければならないのか、その理由を考えてごらん。」という問いのかたちでぼくたちに投げ与えられています。最初のうちは、形そのものができませんから、もともとの意味が失われて形骸化した、ただの無意味な身振りなんじゃないかなという疑念がわいてきます。これが最初のハードルです。この段階で「降りてしまう」人間がいます。だから形なんて無意味だ、という安直な結論に飛びついて、形稽古を止めてしまうか、自分がやりやすいように形を変えてしまう人間がいます。この最初のハードルを飛び越えることができるのは、「武道の形」には「何か今の自分程度の術技では理解が届かない深い意味があるに違いない」と思える人間だけです。自分にわかること、自分にできることだけをやる人間と、自分にわからないこと、自分にできないことだからこそやりたいと思う人間を「スクリーニング」するこれが最初のハードルです。武術が求めているのは、そういう小さな自我の殻を破ることのできる人間です。

その次は、ある種の形がある種の身体部位の微妙な使い方を要求することに気付く段階です。なるほど、これが「武術的身体運用」というものかと、はじめて「腑に落ちる」経験をするのがこのときです。こういう身体運用が自動的にできるようになればよいのだな、と納得がゆくのです。

 

このあと「守破離」の流れへと続くんだけど、ヨガにも通じるものがあるなあと。

ヨガは芸事でもなければもちろん武術でもないんだけど、そのステップは共通するものを感じる。

 

最初はアーサナ(ポーズ)ができない。

曲がらない伸びない、支えられない、静止できない。呼吸も浅い。

つまり、できる・できないといった「カタチをとる事」に意識が向く。

それは至って普通で健全だと思う。最初は。

 

そこから「自分にはできない」、「すぐクリアできそうにない」、「効果(結果)がすぐでない」とか「意味わからん」と思考が進むとヨガは苦痛になる。

 

なぜならそれは、やり続けるしかないから。やり続けること(行為)が目的だから。

やってやってやり続けて、そのうちだんだん気付いてまたやって・・・とにかくやる!繰り返しやる!ってことでしかないので、「いますぐ、結果を!」という急いた気持ちでやるにはちょっと辛かったり、諦めたり、飽きたり、著者のいう「降りる」ってことになりがちなのかな、と。

 

 

ここでは『身体の感覚を蘇らせる』の章からだけ引用してきたけど、他の章も同様に読みごたえ(考えごたえ?)のある内容が続きます。

 

◆心耳を澄ます

◆働くことに疲れたら

◆身体の感覚を蘇らせる

◆「らしく」生きる

◆家族を愛するとは

 

あとがきで「心耳(しんじ)を澄ませて無声の声を聴く」ことについて語られているのだけど、ここはあえて引用せず。なるほどいい言葉だなぁと。