煩悩を抱きしめる

 

日本ヨーガ療法学会(日本ヨーガニケタン)認定インストラクター講座修了時の卒業論文のテーマを「ヨーガの宗教性について語れ」にしたんだけど、論文作成にあたって再読した一冊。

 

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

 

前作『アンダーグラウンド』はオウム被害者側からの視点が中心だったけど、こちらはオウム信者側からの視点を中心にインタビューを基にまとめられたノンフィクション。後半に心理学者、河合隼雄氏との対話が掲載されていて、その中から非常に考えさせられた部分を抜粋してご紹介。 

 

 

河合隼雄氏との対話 275ページ>

河合:これは昔から言われていることだけれど、悪のための殺人って非常に人数が少ないです。それに比べると善のための殺人というのはものすごく多い。戦争なんかそうです。だから善が張り切りだすとすごく恐ろしい。でもだからと言って「悪がいいです」なんて言えませんから、すごく困るんですわ。

<297ページ>

村上:オウムの人に会っていて思ったんですが、「けっこういいやつだな」という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。良くも悪くも「ああ、これが社会だな」と思いました。それに比べると、オウムの人はおしなべて 「感じがいい」としか言いようがなかったです。

河合:それはやっぱりね、世間を騒がすのはだいたい「いいやつ」なんですよ。悪いやつってそんなに大したことはできないですよ。悪いやつで人殺ししたやついうたら、そんなに多くないはずです。だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。よく言われることですが、悪意に基づく殺人で殺される人は数が知れてますが、正義のための殺人ちゅうのはなんといっても大量ですよ。だから良いことをやろうというのは、ものすごいむずかしいことです。それでこのオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても「良いこと」にとりつかれた人ですからねえ。

 

「〇〇、この善きもの」といった絶対的な思い、信仰、帰依、「善いこと」の持つ危うさについて考えさせられたくだり。

 

その昔、病から心身に障害を負った私の父にやれ壺だ印鑑だ、掛け軸だ「神の水を飲め」などとワケのわからないモノやワケのわからない祈りとか儀式のような行為を薦めてきた人達はみな、「これは善いことだから」という圧倒的な信心を持ってやってきた。善意のパワー全開だった。

私と彼らとは話が通じず(私がまだ中高生だったこともあるけど)、彼らの考えを否定したり納得しなかったりすると手のひらを返したように攻撃的な口調になった。その「話の通じなさっぷり」、その激しさ、その頑迷さが薄気味悪く、怖いなぁと思った。

 

弱者を食い物にするハイエナみたいなわかりやすい悪も困りもんだけど、助けたい、善いもの(こと)を広めたいといった『善き動機』『善き目的』が陥るダークサイドがありそれはそれで厄介だということ、そしてそのダークサイドはこの震災後から「社会に広がる暗闇」としてひそかに存在してるような気がちょっとしてる。

 

 

<314ページ>

村上:身体性ということで話をうかがいたいのですが、たとえばヨーガをやるとある種の覚醒は起こりますね。でもそれはあくまでフィジカルなものです。ところがニューエイジ全般というか、とくにオウム真理教にあっては、そのフィジカルなものとメタフィジカルなものが否応なく結び付いていくわけです。

河合:そうなんです。現代人といのはどうしても身体性から切れてしまっているし、だからどうしても頭でっかちになってしまいます。だから身体性の回復をしなくてはいけないということで、この人たちはヨーガをやったりするわけです。そしてこの人たちはすっと感じたりしますね。そのような覚醒された意識と、普段の日常意識とのあいだに繋がりがないんです。そこがぱっと切れてしまっている。というか、日常的なバリアがないぶんだけ、この人たちは覚醒しやすいんです。そしてそういう覚醒と、日常における断絶感みたいなものが一緒になると、これはもうものすごいことになります。

(中略)

河合:我々がちょっとくらい瞑想の真似したって、僕らにも煩悩があるからなかなかうまくいかないんだけどね、その「煩悩を持ってなおかつ」というのが大きな意味を持つんです。ところがこの(オウムに行った)人たちは煩悩の世界が弱すぎるんです。

村上:だからすぐに悟っちゃう。あまりにもすぐに悟っちゃう。

河合:面白いことに、あまりに早く悟った人というのは、その悟りを他人のために役立てることができない場合が多いです。それに比べると、苦労して時間をかけて、「どうしてこんなに悟れへんのやろう。どうして自分だけあかんのやろう。」と悩みながら悟った人のほうが、他人の役に立つ場合が多いんです。煩悩世界を相当持っていて、なおかつ悟るからこそ意味があるんです。

 

インタビューの中で、「これはヨガの修行だから」とやらされた単なる暴力的行為について、多くのオウム信者が淡々と話をしている。素晴らしい体験だったという人さえいる。一足飛びでアッという間に得られる身体意識の覚醒が、オウムでは便利に解釈され悪用された事例が続き気分が悪い。

 

身体意識の覚醒は、ヨガ(と彼らが呼んでいたもの)によるものもあれば、怪しい物質(主にLSD)を手段とした無理やりなものもあり、それらをまとめて「覚醒」と呼び、多くのオウムエリート達は(もちろん非エリートも)簡単にそれを求め、「悟った」だの「解脱した」だのと盲信していった。

 

なぜそんなことが起こったのか?

 

社会で、職場で、学校で、エリートとして純粋培養的に育ってきた彼らのこの危ういバランス感の根本には、河合氏も述べるように、「煩悩を持ってなおかつ」という部分が弱いんだろうなぁと。

 

あたりまえの煩悩を(人間らしさを、あやふやで曖昧で一貫性がないものを、正直な欲望を、)受け容れられず、白か黒か、ゼロかイチかの二言論で捉えて、全てキレイに説明できないと気がすまなかったり、曖昧さを排除したり、不安を明らかにしなければ気がすまないといった極端で潔癖な思考が、煩悩を抱きしめていく力を弱めているのかもしれない。ある意味純粋で、純潔な精神ともいえるけれど、極にふれやすく、もろく壊れやすいんだろうね。

 

突然に身体性に目覚めて妙な方向に行ってしまうという現象は、あたりまえだけどヨガに限らずトライアスロンでもフルマラソンでも、登山でもダイビングでもなんであっても引き起こしてしまう可能性はあると思う。

 

オウムにおいてヨガは最も有効な「覚醒ツール」として使われはしたけど、ヨガに限らずそれは起こり得ることで、重要なことは日常的に身体性を保ち、「生きてる感じがしない」といった断絶感や非日常感を抱えて過ごさないことが大切なのかな。

 

アッチの世界にいかず、

身体的に生き、

善きものにひそむダークサイドを認識し、

煩悩を抱きしめながら社会でフロウする村上春樹的に言えば「踊り続ける」)、

 

が大切なんだね!という気づき。

私は手段としてヨガを選択し、それは素晴らしいことだと幸せに思っているけど「ヨガだけが素晴らしい」とは別に思わない。みんなちがってみんないい! by 金子みすゞ