感じろ!考えろ!
ヨーガ療法士の仲間からメールをもらいました。
お会いしたことはないですが
このブログを読んでくれてるそうな。
↓この記事が参考になったので、
もっとこーゆー視点の記事を書いて欲しいと。
その方曰く、
『一般的なクラスとは異なり、クライアントと向き合ってヨーガを使った「療法」を提供していく立場にありながら、扱うツール(手法)がヨーガだとなんだか非常に論理性に欠ける事例が多いように感じられる。自分も含めて。
感覚的/直観的であることももちろん否定はしないが、やや偏りがある気がする。なぜだろうか?』
・・・といった疑問を(だいぶ要約して書いてますが)
テーマとしてお持ちとのこと。
なるほどそうですか。
何をいつどんなタイミングでここに書くかは
お約束できません、とお返事しましたが
今日はちょっとこの件について書いてみます。
★★★
ところで、
ロジカルシンキング(論理的思考)って
一般的にヨーガの真逆にあるように
やはり思われてるんでしょうかね。
なんか机上論的な、
ちょっとビジネスライクな、
やはり、
考えるな、感じろ!
的なノリのほうが実践が基本のヨーガはしっくりくると。
まあこれはこれでアプローチとしてはアリだと思います。
でもこれ、度が過ぎると(言葉では言い表せない!とアウトプットを手抜きしたり、言葉は役立たずだしクチに出すと無粋よね!とごまかしたり)、
単なる思考停止状態のアホウになってしまいます。
誰かの主観を自分のものとしてみたり、
冷静さや客観性を失ってしまって、
ちゃんと自分で感じることすら
できなくなるんじゃないかと。
たとえば、
■背筋をピンと伸ばして座りましょう。
■目を閉じて、感じてみましょう。
■頭で考えるのではなく、心で感じましょう。
→どうでしたか?
→どんな感じがしました??
クラスでわりによく見る風景ですね。
当たり前ですが感想にイイもワルイもありません。
かっこいい感想も「意識高い」感想も当然ありません。
誰かが感じた感覚とアナタが感じた感覚は、
比べるものでもありません。
ここで言いたいのは
「感じた感覚の解像度」について。
どんな観察も、経験や訓練を経て熟達していきます。
観察眼が養われます。
最初は少し雑で、粗削りで、
「感じた感覚」を表す語彙も持たないかもしれない。
それで別に問題ないです。
やがて経験が(練習が、訓練が)深まるにつれて、
感じる感覚を丁寧に扱えるようになれば
イイんじゃないかと。
つまり、
肉体や呼吸の変化、その先のエネルギーや「気」と呼ばれるような微細なものへの感覚、感情や思考の動き、まぶたに映る不思議な映像や、突然フタが開く記憶・・・
そういったことをつぶさに細やかに拾い上げ、洞察し、味わう・・・その醍醐味をまるっと手放すのはなんとも惜しいことじゃないかと。
内側に集中し瞑想状態に身を置くというのは、
ぼんやり弛緩して意識を失いましょう、
という話ではないので。
なので、
わたしにとっては論理と感性、感覚、感情は
対立ではなく共存、あるいは内包であり、
感じろ!考えろ!
がぴったりきます。
感じっぱなしで放置せず、
その感覚の解像度を高めたい
と考えています。
↓のエントリでも書きましたが、解像度をあげるのに
「言葉によって感覚を磨く」
ことは非常に重要だと考えています。
こーしてブログを書くことも
わたしにとってはサーダナのひとつなわけです。
自分の考え、感じた感覚、思考を言葉/文章という表現方法を用いてまとめる、というサーダナですね。
多様性に満ちたこの世界で、
主観に囚われず客観力を高める
ひとつの稽古として。
なので、
なんかいいかんじですよね
なんとなく
まじですごくないですか?
なんとなく
・・・みたいなことをわたしがクラス中に発したら、
「おい!」と指摘してくださいw
★★★
ダラダラ書きましたが、
ロジシンとかフレームワークはいろいろ応用されてて、
何らかの事象に対して意味づけや提案を行うリーディングやセラピー界隈は、ほぼ王道のフレームワークが下敷きにされてることが多いです。
そこにちょびっとのスピリチュアリティやら心理学やら哲学やらのトッピングが乗っかり、
一見わかりにくいパッケージになってるせいで
気付きにくいですが、本質は全部同じじゃないかな、と
わたしは考えています。
結局はヨガでもなんでも、しっくりくるものを
自分で選び取ればそれでOKで、いずれにせよ
考えるな、感じろ!
ではなく
感じろ!考えろ!
あるいは、
悩むな、考えろ!
なんじゃないかと(ああこれは本当に仰るとーりなんだけど難しいね・・・)。